須佐裕枝氏講演

「ミャンマー(ビルマ)で暮らして」

私は、夫の仕事の関係でこれまで20年ばかり外国で暮らしてきました。外国に出ますと、島根出身、出雲出身と聞くだけですぐに親しくなれます。ミャンマーでは、旅行会社をしている板倉さんという若い女性の方と知り合いになりました。いろいろ話していますと、出雲出身、大社高校出身ということで、二人ともびっくりしてしましました。

現在は1997年からこれまで5年半ミャンマーで暮らしています。皆様はミャンマーという国はいったいどんな国かとお思いでしょう。貧富の差は激しいのですが、乏しいものの中の生活でも人々の表情は明るく、暮らしやすいところです。
1.まず物価が安いことです。食費は二人で月に15,000円くらいです。因みに我が家の30前の運転手さんの給料がチップを入れて4,000円くらいです。ゴルフ代もワンラウンドせいぜい3,000円くらいです。
2.次にメードさんがいることです。主婦にとってはまさに天国です。我が家のメードさんは味噌汁、茶碗蒸など日本料理が得意です。メードさん達の働き先きの一番人気は日本人家庭であり、次はアメリカ人、ヨーロッパ人、シンガポール人、韓国人とくるのだそうです。
3.寒さがないことです。熱帯ですが、本当に暑いのは3~4月です。この時期は、歩き回るのには暑いのですが、ゴルフは暑いといいながらやっています。5月から雨が降り出し、7月から8月にかけては日本よりずっと涼しいところです。11月~1月は快適です。
4.一番素晴らしいのはミャンマーの人達が日本人びいきということです。62年間のイギリスの植民地から独立し、建国できたのは、日本の助けがあったからだと、いまでもミャンマーの人たちは考えており、国全体として大変な親日国です。

私の生活経験の中から、そのあまり知られていないミャンマーのことをお話ししたいと思います。
ミャンマーという国名を耳にして、地球上のどのあたりに存在する国なのか正確に言える人は極めて限られていると思います。(地図で説明する)地理的歴史的事情でインド人、中国人も大勢います。南北に大きく長いイラワジ川が流れています。首都ヤンゴン市は下流にある港湾都市です。1989年ですから、今から14年前政府は英語による正式国名をビルマからThe Union of Myanmar に首都ラングーンをYangonに変えました。ですから、ビルマ ラングーンと言った方が本当は分かり易いのです。このミャンマー、ヤンゴンという名は12世紀頃から使われていたそうで、本来の名前に帰ったということのようです。しかし、イギリスなどは自分がつけたビルマ、ラングーンという呼び方を今でも使っています。
人口5千万人以上、正確な統計がないため正確な数字はわかりません。日本の約1.8倍の面積を持つ国です。この国は135の少数民族が混在する多民族国家です。その中の70%はビルマ人です。30%の少数民族は、山岳地帯に住んでいます。この複雑な民族構成をまとめていくために軍事政権は、力をいれています。今でも時々タイ国境付近で反政府勢力との戦いがおきています。首都ヤンゴン市は戦前62年間のイギリス植民地時代の都市計画が優れていたために、車道も歩道も広く、公園も多数あり、市内には数十年、数百年という大木が多い森の都です。朝もやをついて僧侶達の托鉢の行進が始まります。時間はゆっくりと流れています。ヤンゴン市は、中央のパコダから東西南北に大きな通り延びています。高い建物は新しいのですが、このあたりの建物は、イギリスが残したものです。現在は、市庁舎として使われています。ビクトリア様式の美しい建物が随所にみられます。5,6年前までは、一国の首都とは思えないほど静かでのんびりとした雰囲気だったこの街も、経済開放政策のおかげで自動車の数が爆発的に増加し、市内では渋滞も発生していますし、高層のオフィスビルや高級ホテルが次々と出現し、にぎやかな街に変身しつつあります。

私がミャンマーにやって来て最初に驚いたのは、街を走っている自動車の圧倒的多数が日本から輸入された中古車だということです。ボデイには「高田印刷店」「おいしいお米は秋田米」「箱根観光バス」などなど、私はどこにいるのかと思ったこともあります。大阪市と書かれたごみ収集車もあります。京都市営バスは「農大前」書いた行き先表示をつけたまま走っています。ミャンマーでは日本製なら間違いなく品質が良いというイメージが定着しているからです。軍事政権ということで、さぞかし街には鉄砲を持った兵隊さんがあふれているとお考えになるかもわかりませんが、そんなことはありません。兵隊さんの姿はほとんどありませんし、ヤンゴンの治安はアジアのどの国よりもよいのではないかと思います。

歴史を紐解いてみますと、太平洋戦争末期、昭和19年、この年は私たち15期生が生まれた年なのですが、インパール作戦が始まった年でもあります。皆さんの中には私よりよくご存知の方がたくさんおられると思います。私も今日のために「インパール作戦」の本を読んだのですが、涙なくては読めませんでした。日本軍部はインドへ進出するためビルマからインド東北の高地、インパールに入ろうとしました。30万人以上の若い兵隊さんがビルマにやって来ました。インパール目指して攻めて行きますが、ちょうど雨季のための豪雨、熱病、伝染病、飢餓、イギリス軍の反撃に会い、日本軍は敗退し、何百キロも離れたモールメンという南の都市に逃げ延びて行きました。このモールメンからタイのカンチャナブリまで泰緬鉄道がつながっていました。あのクワイ河マーチで有名な「戦場にかける橋」の舞台になった鉄道です。この戦いで18万人の兵隊さんがビルマでなくなりました。ミャンマーの国のあちこちに日本慰霊碑がありますし、毎年300~400人の方達が団体で慰霊に来ていらっしゃいます。皆さんは竹山道夫の「ビルマの竪琴」という本を読んだり、映画をご覧になった方もたくさんいらっしゃることと思います。あの本は想像で書かれた本ですが、地名を調べてみますと、このあたりにムドンという街があります。ここに日本兵収容所がありました。戦争が終わったあと主人公の水島上等兵はここ「マンダレー」の近くの山野から徒歩で荒野を800キロばかり歩いて戦友達がいるこの収容所までやってきますが、その途中あちこちに散らばる野ざらしになった日本兵の遺体を目にします。白骨街道と呼ばれた道もあったそうです。水島上等兵はビルマの山野に散乱しているこれら戦友の遺骨を収集し、その成仏を祈るためビルマに残留することを決心します。そして収容所の外で皆で歌った歌を竪琴でひき、別れていきます。最初少し先生について習いました。今はやっていませんので、下手ですが、時間がありましたらあとでミャンマーの曲を一曲弾きたいと思います。この戦いの後水島上等兵のようにビルマに残った日本兵が2000人はいると言われています。

ヤンゴンで一番大きいパコダはシュエダゴンパコダと言います。シュエとはゴールドという意味です。金箔がはってあるので、光り輝いています。始めは、小さかったものがどんどん大きくなり、現在の高さは99.4mあります。2500年の歴史があるといいます。パコダは日本で言えば、お寺という概念に近いものです。中央の仏塔の中にはお釈迦様の髪の毛、杖、沐浴の際に用いられた衣、飲み水を得る為に用いられた水こしの4つが安置されています。一度ミャンマーのテレビでみましたが、この塔の上部の傘の部分は膨大なダイヤモンド、翡翠、ルビー、サファイヤなどの7000個ばかりの宝石で飾られています。76カラットのダイヤモンドもあるそうです。ミャンマーで取れた宝石の寄付もありますし、昔、シャム(タイ)に攻め込んだ時の戦利品もたくさんあるそうです。これだけでミャンマーの全国民が十数年暮らせるといわれています。ビルマの友達が以前立派な翡翠の指輪をしていましたが、ある日突然していませんので、聞いてみたら、シュエダゴンパコダに寄付したと言っていました。まあこんな感じ、惜しげもなく立派な指輪を寄付してしまうのです。先日、翡翠、ルビー、真珠のオークションがあると聞いて、つてを頼って見せてもらいました。翡翠は100kgから500kgくらいの原石がきれいに削られ、緑の面を出して並べられていました。大きな庭一杯に本当に何百という緑の石が所狭しと並べられているのは壮観でした。香港、マカオ、シンガポール、中国、日本の宝石商たちが来て真剣に値段をつけていました。一個90kgくらいの翡翠の原石に510万ドル(約6億円)という値段がついた時には会場が大いに沸きました。今回のオークションでは全部で四千万ドル(約50億円)売れたそうです。売上の45%が政府のものになると聞きました。政府は濡手に粟の収入ですよね。

パコダの話に戻りまして、これはまた別のパコダです。国内に何万あるか数知れないパコダですが、ヤンゴン市の近くのポータタウンパコダにはお釈迦様の髪の毛が見られるというので、行って見ました。中に入り、良く見たのですが、強烈な白熱灯がついていてガラスのケースの中に数本の髪の毛があるというのですが、よくわかりませんでした。ヤンゴンから北約500kmのところにバガンという街があります。イラワジ川の左側にあります。ここには、3000とも4000ともいわれる古いパコダが林立して一望のもとに眺められます。本当に素晴らしい眺めです。ここは、11世紀から13世紀ごろの都でした。その時代に建てられたものが主体で、パコダを作るためのレンガを焼くために木を切って使ったため、あたり一面砂漠のようになってしまいました。バガンはインドネシアのボロブドール、カンボジャのアンコールワットと並び、世界三大仏教遺跡と言われています。ミャンマーで生活していますと、ここはまさに仏教が生きているということを実感します。パコダも生活の中に溶け込んでいます。境内には休憩所があり、ここで弁当を食べたり、昼寝を決め込んだり、恋人達がデートをしたり、もちろん熱心に頭を地につけて拝んでいる人もたくさんいます。仕事帰りや買い物の途中に気軽に立ち寄ってお祈りをしていく人もいます。うちのメードさんに日曜日はどうするのと聞きますと、シュエダゴンパコダへ行くといいます。昔の日本もそうだったのではないでしょうか。高僧は、礼拝に値する高貴な存在で、プロマイドがよく売れ、車の中に張ったり、若い女の子達でも財布に入れたりしています。僧侶の名前もよく知っています。
この国は日本のような大乗仏教ではなく、小乗仏教ですから、先祖の位牌はなく、家庭でもお釈迦様などの仏像にお祈りしています。祖先供養がないから、日本人や中国人のようなお墓も作りません。死生感もずいぶん違います。これを話していると長くなるのでやめますが、これはカルチャーショックでした。

カルチャーショックと言えば服装です。これはミャンマーの女優さんの写真で、ミャンマーでは娯楽として映画は中心的な役割を果たしており、映画産業も盛んなようです。写真に2001とありますが、これはミャンマー映画アカデミー賞を取った女優さんだということを示しています。ミャンマーで、アカデミー賞とはちょっと驚きました。
ミャンマーの美人はだいたい下膨れの丸顔です。着ているスカートがロンジーです。男女とも長い巻きスカートを着けています。警察官や軍人など少数の例外を除いて、老若男女を問わず、着用率はほぼ100%です。同期の友達に着てもらいましたので、見て下さい。ヤンゴンの銀座と言われるような繁華街を若者がこのロンジーをつけて闊歩する姿を想像して下さい。男性と女性は結び方が違います。布を筒状にしただけの簡単な作りです。
このロンジー姿はシルクで作れば正装です。結婚式はもちろん、普段はズボン姿の営業マンもなにか式典や、えらいさんに会うときには絹のロンジーをはいていきます。コットンのロンジーは労働者であり、寝巻きでもあり、入浴にもかかせません。
田舎へ行きますと、男性も女性もよくこうして昼間でも井戸端で行水しているのを見かけます。全国で学校の先生と生徒は緑のロンジー、若い看護婦さんは血の出るような赤のロンジーです。我が家の屋根直しに来た左官さんや、大工さんがこのロンジーに地下足袋をはいて、するすると屋根に登って行くのには驚きました。
日本では男性の立ちションなんていうのがありますが、ここは男性もロンジーを広げてしゃがみこんでいます。最近はミニスカート、パンツ、ジーパンなども見られるようになってきました。履物はサンダルかゴムぞうりです。60台過ぎの政府の人とロンジーの話しをしていた時、人々がロンジーをはかなくなるのは古い良き文化が廃れて行くようで寂しいと言っておられたのが印象的でした。

その昔ラングーンはバンコクをはるかにしのいだだけでなく、アジアのあこがれの街であり、ラングーン空港はアジアのハブ空港だったと聞きますが、それがいつのまにか、時間の止まってしまった国、現代文明に取り残された国、日本から見て遠い国になったのは1962年、昭和37年ころ、ネウイン将軍のビルマ式社会主義という26年間の鎖国政策のためです。外国の影響をかたくなに拒否して自国の文化と伝統を守ってきたのですが、日常品に不自由した人達による1988年の暴動が反体制運動につながり、ネウインの独裁体制が崩壊しました。
その後、総選挙が行われアウンサンスーチーのひきいるNLDが勝利をおさめましたが、あまりに急激な民主化はかえって混乱をもたらすとして、軍事政権が国をコントロールしています。私たちが住んでいた最初の家は、ネウインの家のすぐ近くでした。門の前に小銃を持った兵隊がいつも立っていました。日本人の友達が来ますと、その家を見たがりますので、連れて行きますと、兵隊がえらい勢いでやって来てGo Away!!と怒鳴られました。昨年12月92歳でネウインがなくなりました。元26年間の首相ですが、国は関係しないで、家族だけのひっそりした葬式だったようです。

皆様ご存知のようにアウンサンスーチーは現在3回目の拘束をされています。民主化を目指すという意味では軍事政権も、スーチーも同じですが一方が悪玉、一方が善玉として諸外国から厳しいプレッシャーを受けているのは残念なことです。
ノーベル平和賞の受賞者としてメデイアでは好意的な報道が多いですが、彼女の発言は政府に対することに終始しており、国民のための政策を打ち出していません。「民主化されていないミャンマーに経済援助や投資はするな、観光客も来てくれるな、軍事政権を助けることになる」という彼女に国民の熱狂的な期待感は薄らぎ、特に経済界の人達は必ずしも全部がシンパではありません。

二月ボージョーマーケットというセゴンで一番大きな市場を歩いていましたら、日本の民主党の羽田さん達5~6人に会いました。外国から来た政治家はよくスーチー女史に会われるので、羽田さんにWelcome to Myanmarと話しかけ、スーチーにもう会われましたかと聞きましたら、いいえ今回は麻薬撲滅のため、けしの花の代替植物を植える話しで来ていますとおっしゃっていました。この東北部は悪名高い黄金の三角地帯と呼ばれた世界最大の阿片産地でした。一時はアメリカに入る阿片の70%がミャンマー産だったそうで、アメリカも阿片の撲滅には大変力を入れています。けしの花の代わりにそばとか、甘味料にするステピアとかを栽培する資金を日本は出しています。JICA(国際協力事業団)の人がたくさん入っています。

風俗、習慣は日本と随分異なっているミャンマーですが、人々の顔つきは日本人と似ています。プライドの高い国民です。一方性格はシャイで、自己主張はほとんどしません。価値観も日本的です。反対から見れば、積極性に欠ける、意見を聞いてもはっきり答えないなど、まるで自分のことを言われているみたいだと思う日本人も多いことでしょう。英語の理解力、会話能力は高くて、イギリス植民地時代以来の伝統で大学の授業の多くが今も英語で行われています。仕事の絶対量数が少ないため、海外でやりがいのある仕事をしようという人も多く、語学に対する熱意と努力は素晴らしいといつも感心します。政府の役人や軍人たちは皆さん英語ができます。ある時、路地に入り、道に迷いそこを通りかかったおじいさんに助けを求めたところ、素晴らしい英語の答えが返ってきて驚きました。植民地時代に英語を勉強した世代のお年寄りの中にはこのようにKing’s Englishをしゃべる人がいます。

現在欧米のサンクションにより、経済援助はほとんどストップしており、海外からの投資もほとんどありません。日本も欧米を差し置いて目だった行動も出来ず、円借款も止まったままです。このような制裁が経済発展を妨げ、最後につけは一般民衆に回されて、この国の人達をいかに苦しめているか、考えてしまいます。今回のサンクションでは、アメリカへ輸出が出来なくなり、アパレルの会社が数社撤退しました。

現在ヤンゴンの日本人の数は約500人と言われています。なかなか現在の停滞した状況をbreak-throughできず、最近では銀行があいついで撤退するなど、日本人の数は多少減り気味です。しかし、日本人にとって居心地のいい国ですし、国土も広く、資源も豊富な非常に可能性のある国です。日本企業はいつかどっと動き出すときが必ず来ると歯を食いしばってがんばっています。ミャンマー政府は、市場主義経済をかかげ、開放政策、自由化を推進し、なんとか自力で経済の発展を目指していますが、やはりまずスーチー問題の解決が先決なような気がします。

ミャンマーが素晴らしい仏教伝統文化を維持しつつ発展して行くことを私は願っています。そしてこんなに親日感情のいい国は他にはないのですから、日本もミャンマーを大事にしていかないといけないと思います。機会がありましたら、ぜひミャンマーに遊びに来て下さい。心情的に昔の日本をみつけられるかもしれません。