次世代への遺産
(独)日本原子力研究開発機構 吉田善行

1.地球環境とエネルギー問題
現代に生きる私たちは、先人が築いた“遺産”の上に立っています。大社の地を特徴付ける出雲大社や、私の出生地の日御碕にある神社や灯台は、いつでも私たちを力強く支えてくれる、大切な正の遺産です。そしていなさ会も世代を超えて引き継がれてきた貴重な遺産です。
一方、ありがたくない遺産もたくさんあります。現世代の私たちだけでは到底解決することができず、のちの世代に引き継がざるを得ない重大な課題で、“負の遺産”と呼ぶものです。その一つが、地球の環境問題であり、さらにこれと大いに関係しているエネルギー問題です。
環境問題の典型が地球の温暖化です。地球の温暖化はエルニーニョ現象などを誘発し、それによって異常気象をもたらします。未曾有の台風が発生したり、夏に異常な高温が続いたり、大寒波が襲ったり・・・、今年も世界各地で荒々しいまでの異常気象が報じられています。また、アンデスの氷河の崩落、マーシャル諸島の海岸の侵食、内モンゴルの砂漠の拡大など、温暖化の結果としての地球環境の変化が顕在化した例も多くあります。そして地球の温暖化は主に、人類がエネルギーを生産するために発生させている炭酸ガスによる温室効果が原因だとされています。何とかこのような負の遺産はなくして、孫、ひ孫の世代には正の遺産だけを残してやりたいと思うのが人情ですが、現実はそう簡単ではありません。この課題に解を見つけ出すには、小手先だけの対策ではどうしようもなく、時間的、空間的に広い視野に立って解決策を見つけ出す努力が大切です。


2.人類とエネルギーのかかわり
これまでに人類がどのようにエネルギーを生産し、利用してきたかを概観します。紀元前以降、西暦1800年頃までは、原始人、狩猟人、農業人たちは殆どエネルギーを使いませんでした。人類が画期的にエネルギーを使い出したのは、ワットの蒸気機関発明以降です。それを契機に産業人、技術人なる分類が生まれ、19世紀後半以降、我々の先輩は主に化石燃料を源として大量のエネルギーを生産し使うようになり、それが産業の発展をもたらしました。このようにエネルギー消費が増大するのと同じカーブを描きながら、大気中の炭酸ガス濃度が急激に上昇しました。詳細な因果関係については未解明の部分も残されていますが、文明の進歩と、エネルギーの消費量、それに伴う炭酸ガスの増加、それによる地球の温暖化がお互いに関連しあっていることは明らかです。
さて、環境問題、エネルギー問題に対処するに当たって、考慮しなければならない大事なことがあります。それは対象にすべき時間軸の長さです。普段、私たちに降りかかる課題を解決するには、せいぜい数世代程度を考えれば十分なことが多いのですが、この環境問題、エネルギー問題にそれは通用しません。もっともっと長い時間軸で物事を考えなければなりません。
地球の年代の時間軸でわれわれ人類の営みを見直してみます。地球が誕生したのは今から46億年前です。一言で46億年といっても、時間軸が長すぎてピンときません。そこでわれわれが何とか実感できる1年間という尺度で、地球が誕生してから今日までの移り変わりを見ます。すなわち、元旦の午前零時に宇宙空間に地球が誕生し、現時点が一年後の大晦日午前零時とします。この時間軸では地球上に生命が誕生したのは3月31日頃ということになります。そして、長い時間をかけて生命が進化し、やっと12月の半ばに哺乳類が誕生し、“ひと”の祖先が誕生するのは大晦日の午後8時、われわれ人類の祖先が誕生するのが12月31日午後11時45分頃、といった具合です。地球の年齢に比べると人類が過ごしてきた年月のいかに短いことかが実感できます。このように極めて長い時間かけて築き上げられてきた地球環境を、極短時間のうちに人類が破壊したとしますと、いかにも愚かなことと言わざるを得ません。
ところで、現在私たちは石油や石炭など化石燃料を燃やしてエネルギーを生産しています。その石油も近いうちに底をつくと言われています。石油は今から4億年~5億年前に1億年~2億年かけて作られました。そして人類は約200年かけてそれを使い尽くそうとしています。上述の地球年代の時間軸で言い換えると、12月はじめごろに1週間程度の時間を費やして生産された石油を、その年が暮れようとする瞬間の1.3秒間で使い切ってしまうということです。このようにみてみると我々人類が文明の進歩の名を借りて活動する様は、地球環境の視点からするととんでもないことのような気がしてなりません。
ところがそういいながらも私どもエネルギーなしの生活には戻ることが出来ません。だからこそ、このエネルギー問題は難解で、できるだけ長い目で、少なくともわれわれの子孫と共有できる価値観で解を見つけ出す必要があります。エネルギー問題を解決するのに次のような手段があります。まずは全員で省エネルギーをやることが大切です。無駄使いをしない、リサイクルできるものはそのようにしてむやみに捨てないことです。簡単な策ですが、効果は予想した以上に確実です。他のひとつは、化石燃料に代わるエネルギーを手に入れることです。そして、省エネルギーを可能とし、新しいエネルギーを作り出す科学技術を進歩させることが重要です。先ほどから観てきましたとおり、科学技術が進歩したがために新たな地球温暖化やエネルギー不足の課題が発生しました。これを解決していくのも科学技術の使命です。


3.いろいろなエネルギー源
石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料以外にも多くのエネルギー源があります。特に炭酸ガスを発生しないという観点から有望視されているのが、原子力(核分裂と核融合)、および水力、太陽、波の力、地熱、風力などの自然エネルギー、また、廃棄物の有効利用などです。
いま全国で風力発電装置の設置が盛んです。風力は枯渇する心配がなく、炭酸ガスも発生しないクリーンエネルギーです。もちろん風が無いときには使えませんし、あまり大きなエネルギー源にはなりません。それでも2010年ごろまでに全国で300万キロワット、すなわち一般的なタイプの原子力発電所の3基分に相当する発電量が目標です。風力と並んで太陽光も利用したいエネルギー源です。太陽もまず枯渇する心配がなく、炭酸ガスを発生させることもないという得がたい利点を有するのですが、なにせ夜間や雨の日には無力で、やはり大きなエネルギー源とはならないのが実情です。それでも2010年ごろまでには、原発5基分に相当する量の太陽光発電達成を目標としています。
このような風力、太陽光などと、化石燃料を利用するエネルギー生産、そして原子力を利用するエネルギー生産、これらの全てをうまい比率で効果的に使っていくことが必要です。いずれか一つの方法だけに依存して今のわれわれの生活を維持し発展させていくことは出来ません。バランスのよいエネルギー源の利用が肝要です。


4.原子力エネルギーの利用
先の20世紀は「核の世紀nuclear century」とも呼ばれます。いろいろな意味で、20世紀の歴史は、核すなわち原子力を抜きにして語ることができません。
19世紀が終わりいよいよ20世紀が始まろうとする頃でした。フランスの物理学者ベクレルは、1896年(明治29年)に、当時蛍光を放つとして戦略物質として研究されていたウランが、放射能を持つことを発見しました。目にも見えず、匂いもなく、さわっても実体のない放射能を見つけ出すのは当時そう簡単ではなかったのですが、レントゲン写真の原理を利用してこれを発見しました。1903年にノーベル物理学賞の対象になった成果です。
次いで、ベクレルの発見にも大いに刺激されて放射能に強い興味を持ったのが著名なキュリー婦人です。1898年(明治31年)ラジウムを発見するとともに、ウランなどの放射能に関する画期的な研究を次から次と進めます。そして1903年には主人のピエール・キュリーと一緒にノーベル物理学賞を、さらに1911年にはノーベル化学賞を受賞します。一人で二つのノーベル賞を受賞したのは史上初の快挙であり、今後にもそのようなことが起こるとは考えられません。これらが、20世紀初頭の“核の世紀”の幕開けの出来事です。
そして1940年(昭和15年)には化学の世界で画期的な出来事が生じます。米国のグレン・シーボルグが、初めてプルトニウムという元素の人工合成に成功しました。その後シーボルグはいくつも新しい元素を合成して1951年にはノーベル化学賞を受賞しました。自らが作り出したプルトニウムという新しい元素が、のちに原子爆弾として利用されてしまったことを、誰よりも強く嘆いていた化学者でした。
さらにドイツの化学者オットー・ハーンは、1938年(昭和13年)にウランの核分裂現象を発見します。1944年のノーベル化学賞受賞者です。ウランに中性子が衝突すると、ウランがほぼ真っ二つに割れます。そのときに莫大な熱と中性子が発生します。この中性子をさらに利用してウランの核分裂を連鎖的に起こさせ、発生する熱を使って水蒸気を作り、これでタービンを廻して発電するのが原子力発電です。そして、1942年(昭和17年、すなわち真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争が2年目を迎えたその年)にシカゴ大学に世界ではじめての原子炉が設置され、核分裂実験が成功しました。
このような黎明期の原子力の研究は、太平洋戦争の期間中、明らかに兵器としての利用を目的とした研究であったという、きわめて負の側面をあらわにしつつの科学技術の進展でありました。そして広島、長崎への原爆投下へと繋がっていったという、極めて残念な歴史を辿ります。
戦後10年もたたない昭和28年、国連において有名なアイゼンハワー大統領による演説がなされました。”Atoms for Peace”すなわち原子力をエネルギー源として平和利用しようと訴える内容です。これを契機に各国で原子力利用の研究開発がスタートしました。そして昭和30年、第1回原子力平和利用国際会議、通称ジュネーブ会議が開催され、わが国からも超党派の代表団が出席しました。民主党の中曽根康弘議員、右派社会党の松前重義議員ほかです。最近の中曽根先生の談話に、その時代を回顧する次のようなものがあります。「その時、我々は非常なショックを受けた。そして原子力平和利用の大促進を決意した。」というものです。またのちに日本原子力研究所(以下“原研”)の第2代理事長になる団長駒形博士も、「科学者として日本の遅れを実感した」ということでした。時に戦後10年、わが国の復興の力を原子力エネルギーに求める断固たる決意がなされた瞬間でした。
そして翌年、驚くべき迅速さで原研が発足し、翌年には東海村にわが国で初の原子の火が点りました。研究用原子炉JRR-1と呼ばれ、今は役目を終えてミュージアムとして活用されています。わが国を挙げて、原子力に夢を託した時代でした。
その後、原子力は時代の花形として急激に進歩します。昭和40年、日本原子力発電(株)東海発電所でわが国初の原子力発電所が稼動し、昭和45年、東京電力福島発電所および関西電力美浜原子力発電所が稼動します。次いでものすごい勢いで原子力発電所が建設され、現在(平成18年夏)、全国津々浦々に計55基が稼動しています。わが国では、発電量全体の30%を原子力でまかなっています。同時に、石炭、石油、天然ガス、水力そして極わずかの風力、太陽光が発電のためのエネルギー源として使われていますが、外国と比較してわが国の特徴は、資源ごとの発電量の比率において大変にバランスがいいということです。このようなバランスのとれた利用こそ、エネルギーセキュリティーの確保にとって大切な条件です。
それにしても敗戦直後から今日に至るまで、わが国の復興にむけて先達が進めた政策、活動の他に類例をみない先見性、迅速性、柔軟性などには驚きさえ覚えます。世界で唯一の被爆国となり敗戦した昭和20年から、10年も経たない昭和29年3月に、政府は2億5千万円のわが国初の原子力予算を計上しました。被ばくという原子力の負の側面に身をもって触れたわが国が、その平和利用のスタートを切ったのです。地下資源を有しないわが国が世界と肩を並べて発展するためには、原子力をエネルギー源の主軸とすべきであるとの断固たる決意に基づく政策だったわけです。


5.今後の原子力の研究開発にむけて
さてこのように20世紀を走り抜けるようにして急激に進歩した原子力ですが、決して順風満帆というわけではありません。事実、幾たびか原子力施設での事故を経験しました。
原子力施設の事故の一例として1999年9月30日に発生したJCO事故について触れます。これはわが国ではこれまでで最も深刻な事故でした。東海村の(株)JCOで、ウラン燃料を製造するための化学処理を行っていた際に発生した、ウランの核分裂が止まらなくなる臨界事故です。事故自体は容積約1トンの溶液槽の中で起こったものですが、作業員3名が重大な放射線被ばくを受けるとともに、当日半径10キロメートル圏内に屋内退避措置がとられ、周辺の住民の方たちにも大きな被害をもたらした未曾有の事故でした。それを契機に原子力に対する見直し論が強くなったのも事実です。
このような原子力を取り巻く情勢が大きく変化していることも反映して、私たち原子力の研究開発に携わるものが今後果たすべき大きな任務があると考えています。昨年10月1日に発足した独立行政法人日本原子力研究開発機構は、全国に11の拠点を構えています。北は北海道幌延の深地層研究センターから、南は木津市の関西光科学研究所や人形峠の環境技術センターです。これらの研究拠点で、様々な原子力に関する研究開発を進めていますが、原子力の進展に伴って対応すべき研究開発課題も大きく変遷してきています。私が所属する東海村の原子力科学研究所では、上述のような事故が2度と起こらないようにと原子力の安全に関する研究を進めています。また、新しい原子力技術の開発や放射線を利用して新しい産業を創造するための研究などにも力を入れています。
いくつか私自身が最近興味をもって進めてきた研究を紹介します。今の原子力産業の中で、最も重要な課題、言い方を変えますとネックは、放射性廃棄物の問題です。その放射性廃棄物から貴重な資源を回収して、それをリサイクルするための新技術開発が必要と考えています。
まず、種々の廃棄物から有用資源を回収する技術の開発を試みました。その結果、いまからもう10年ほど前になりますが、炭酸ガスを使ってウランを回収する事に成功しました。この方法は、地球温暖化の原因として厄介者の炭酸ガスを回収して資材として使う、という点でも評価を得ました。開発に成功したのち、米国、英国の大学、原子力研究機関と共同研究を進めました。さらに回収した放射性物質を何とかリサイクルして利用できないものかと考え、その廃棄物からでてくる放射線を利用して、水素の製造を試し、これにも成功しました。


6.科学技術立国の夢と次世代への遺産
環境問題やエネルギー問題に限らず身の周りには色々な負の遺産が現存します。それに対して、広い視野に立った解決策の構築が必要です。そして、その解決を実現するのが科学技術の力です。わが国の科学技術政策を決めている法律があります。いわゆる「科学技術基本法」であり、平成7年に制定されました。同法の趣旨には次のことが謳われています。
『我が国は、科学技術キャッチアップの時代、すなわち目標となる先進国が存在し、各種分野で技術導入が可能であった時代の終焉を迎えている。今後は、フロント・ランナーの一員として、自ら未開の科学技術分野に挑戦し、創造性を最大限に発揮し、未来を切り拓いていかなければならない。とりわけ、天然資源に乏しく、人口の急速な高齢化を迎えようとしている我が国が、明るい未来を切り拓いていくためには、独創的、先端的な科学技術を開発し、これによって新産業を創出することが不可欠である。』
私も、科学技術はその「夢」をかなえてくれる原動力のひとつであろうと思います。50年前を振り返ってみましょう。全く実現しそうもないことを夢として追い求めていたわれわれの姿がありました。
子供の頃、誰が一軒に2台も3台も車があるような生活を予想したでしょう。小学校低学年の頃だったと記憶していますが、日御碕に初めての自家用車を所有する人が出てきたのがつい最近のことのようです。乗せてもらうのが楽しくて仕方なかった事を覚えています。初めてのテレビが小学校の宿直室に設置されて皆が鈴なりになって相撲中継を見たものです。いまや各家庭、部屋ごとにカラーテレビの生活です。同じく学校の宿直室にあった手回し式黒電話で電話のかけ方の授業を受けたのを覚えています。やたらと緊張しました。その頃「携帯電話」の世の中を誰が予測できたのでしょう。大型電子計算機によって、複雑な計算もあっという間に解けるようになりました。宇宙開発の成功は大いに計算機システムの出来にかかっています。我々の時代はといいますと「計算尺」と「そろばん」です。「十万馬力・・・」の鉄腕アトムは原動力に原子力を使いました。手塚治虫さんの夢の世界です。これらはたった40年、50年前の出来事です。その頃見続けた夢を可能にしてきたのは科学技術です。次の世代にそのような夢を伝える時、一緒に、科学技術はそれらをきっと可能にしてくれるという信念を伝える必要があります。
ちょうど私が小学校低学年の頃であったと思います。わが国の原子力がスタートした頃です。母は、我が家で購読していた毎日新聞にその頃連載されておりましたある記事を切り抜いておりました。「パンドラの箱」という題名のシリーズもので、それを切抜いて端を飯粒で糊付けし、分厚い冊子のようにして保管して読み返しておりましたので、結構ボリュームのある連載であったかと思います。
「パンドラの箱」とはギリシャ神話に出てくる地上に最初に生まれた女性パンドラが、ゼウスの命を受けてあらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした箱のことです。これを開いてしまったために不幸が飛び出してしまったのですが、急いでふたを閉めたために希望だけが残った、というものです。その連載記事が取り扱っていたのは、ちょうど開始された原子力でした。被爆国日本が、被ばく後10年ちょっとで原子力の平和利用に乗り出す様子を、「原爆投下は、開けてはいけない災いのつまった箱を開けてしまった出来事、そして今、その箱を速やかに閉じて希望だけを残そうとするのが原子力平和利用・・・」と例えていたのでしょうか?何せ私まだ小学生低学年の頃ですので内容は正確につかめませんでしたが、そのような印象を受けた記憶が残っています。私はこの切り抜き冊子を母から譲り受けて、大学を卒業するときまでぼろぼろになったそれを持ち歩いておりました。
ついでに私事で恐縮ですが・・・日御碕の小さな寺の長男として生まれた私は音読みの名を与えられ、当然跡を継ぐものという考えを持っていました。大学4年の6月には、母校の大社高校で教育実習の機会を得ました。そのころは教員になって郷里に帰ろうと思っていました。また一方で(はっきりとした目的があったわけではありませんが)、大学の教授の勧めで原研を受験しており、それへの合格通知をもらったのが、7月20日ちょっと前でした。そのことは自分の進路の選択において大きな悩みの原因になりました。静岡から郷里に帰るのと、そこから茨城に行くのとでは、方角が180度違っておりますし、一生を決める決断をしなければならなかったからです。
そんな時、7月20日に島根の父から電報を受け取りました。きっと帰ってくるように、ということかなと思って開いてみますと、「オメデトウ ジブンノエランダミチヲススミナサイ チチ」でした。最近の出来事でしたらたぶん父親から携帯電話がかかってきて、「おめでとう。好きなことやっていいぞ」、「いやあ、やっぱり島根に帰ってあと継ぐよ」というような会話になっていたのではないかと想像できます。ところが何しろ電報ですので、電文の20数文字を何回も何回も読み返すことが出来ます。自分ひとりで色々なことを繰り返し繰り返し考え続けた事を記憶しています。
そして、忘れもしません。明けて7月21日のことでした。私も全世界の人たちと一緒にテレビの前に釘付けになりました。静岡の下宿家の隣のうちに上がりこんで、テレビに食い入りました。人類が始めて月面に着陸した瞬間です。翌日の新聞には、「人類ついに月に立つ。夢をかなえた科学技術の勝利!」という見出しが踊っておりました。父からの電報の意味もかみ締めつつ、その夜に私は、何かに背中をドーンと押されたような気がして、原子力の道に進むことを決めました。
ところで最近、小学生や中学生の子達のいわゆる“理科離れ”がとやかく指摘されております。科学技術立国をめざすわが国にとって、“理科離れ”はいずれ深刻な社会問題になりかねません。ぜひ科学を愛し、科学技術を発展させることに生きがいを見出す若者がたくさん出てきてほしいと思います。ところで、なぜ理科離れが進んできているのでしょうか?この命題を考える機会が度々ありますが、いつも到達する結論は次の通りです。それは、小さな子たちが本質的なところで理科から離れてきている、というようなことは決してない、ということです。いつの世であっても、子供たちは本質的に立派な科学者の目を持っております。「お母さん、海ってなぜ青く見えるの」、「お父さん、お星様ってなぜ夜に光って見えるの」、すばらしい問いかけです。「なにバカなこと言ってんの!」なんていわないで、小さな科学者たちの旺盛な好奇心と鋭敏な感受性が、科学技術を発展させる最も基本的な力です。科学の発見はまさにこのような「なぜ」という行為から始まります。それまでの常識であるとか定説とかを覆して新しいことを見つけ出すという科学の研究に必要とされる基本的な態度が、この「なんで?」という問いかけなのです。いい研究をやる研究者の素質と、「なぜ?」と問いかける才能との間にはほぼ正の相関があります。子供たちの純粋な興味を大切に育んでやりたいものです。そして、次世代の子供たちへの愛情と信頼こそが、その子達に残してやるべき“遺産”そのものであることを信じてやみません。


7.謝辞
多くの皆さんにお礼を申し述べます。千家会長ほか“いなさ会”の皆さん、お世話になった先生方、先輩後輩諸氏、そして18期同級生同窓の皆さん方です。遠くに出ておりましても常に励ましであり、よりどころです。そして今日ここで改めてお礼を申し述べたい方がございます。新宮克郎先生、昨年7月13日に亡くなられ、今日は先生の初盆です。私たち18期生はいろいろな形で先生の世話になり、先生とともに歩んでまいりました。先生を失った今、先生から頂いた“遺産”の大きさを実感しつつ、心から感謝と追悼の意を表します。