出雲の復権-古代出雲歴史博物館は語る
1 はじめに
古代出雲歴史博物館が、今年3月に出雲大社のすぐ東隣にオープンしました。
まだできたての博物館ですが、これまでの来館者は約25万人、まずまず順調なスタートを切らせていただきました。いなさ会の諸先輩方をはじめとする多くの皆様方の温かいご支援の賜と、深く感謝申し上げます。
今日は、「出雲の復権、古代出雲歴史博物館は語る」という題で、しばらくお話をさせていただきます。私ごとき者がこのような場で、このような題でお話をさせていただくなど、ずいぶん大それたことをお受けしてしまったなあと、今深く後悔していますが、たぶん、旧大社の町に、初めてと言っていいと思いますが、県立の大型施設ができたということで、それを激励してやろうという、いなさ会幹部の皆様方の温かいお気持ちの表れであろうと理解し、勇気をふるってお話しさせていただきます。
私は、ご紹介にありましたように40年近く前に県に採用されましたが、いわゆる事務屋であり、本来古代出雲を語るなどという資格を持つ者ではありません。研究者でもなんでもなく、たまたま、この何年か教育委員会関係の仕事が多く、古代出雲歴史博物館の建設にも多少携わったことがあり、そのようなことから現在博物館にいるというだけで、専門的な知識などまるでなく、古代出雲について体系的にお話をするなどということは全く能力を超えております。ここにいらっしゃいます方の中には、私の何百倍もの知識をお持ちの方も多々いらっしゃると思うと、ずいぶん大それたことをしているなあと思いますが、この古代出雲歴史博物館ができるまでの経緯などについては多少の知識や思いもございますので、そういったところと、あるいは展示の一部をご紹介しながら、この博物館が語りかけたいことなどを、受け売りでつまみ食い的にご紹介させていただき、お許しを得たいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。

2 出雲というところ
私はこの大社の町で生まれ、育ちました。
小さいころから、私たちは、この出雲というところは特別なところなんだと教わってきました。幼稚園の紙芝居やそこで歌う歌は大黒さまと因幡の白ウサギでした。出雲大社は日本一のお宮さまで、全国からたくさんの人がご参拝にいらっしゃる、今の大社さんも日本一大きいけれども、昔ももっともっと大きかった、「雲太、和二、京三」といって、奈良の大仏殿より大きく、今の2倍の高さがあった、と教えられ、稲佐の浜を見れば国譲り神話を思い出し、出雲大社のご本殿を後ろからを仰ぎ見れば、その壮大さに心がふるえる思いをしたものです。
しかし長じて出雲以外の人たちと接するようになり、出雲の自慢をすると、確かに出雲大社はある、が、ほかに何があるんだ、と言われると返す言葉がありませんでした。実に古代出雲の存在を裏付ける考古資料はほとんどなかったのです。いくら出雲にはたくさんの神話が残されている、いろいろな伝承があると言っても、その痕跡はほとんど見られなかったのです。
虚構の出雲といわれたゆえんです。悔しい思いをしたこともありますが、皆さまの中にもそんな思いをなさった方がいらっしゃるのではないでしょうか。

3 神々の流竄
今もご活躍の梅原猛という哲学者がいらっしゃいます。柿本人麻呂の終焉の地を確定させるということで、益田市周辺で精力的な調査活動も行われ、島根県にとっても非常に縁の深い方ですが、梅原先生は今から40年近く前に、「神々の流竄」という論文を著していらっしゃいます。
梅原先生は、この「神々の流竄」で、
「出雲の国はいくつかの幻想に満ちている。美しい雲、すばらしい入り日、そして数々の神秘。そうした幻影の中に、古事記、日本書紀の神話の実在性が信じられる。しかし、すべてそれが、8世紀の大和朝廷の指導者が仕組んだ壮大な芝居であるとしたら、どうなるであろうか」、「戦後、考古学の発展はいちじるしい。そして考古学は、様々な遺跡を明らかにするが、特に、宝物を埋める習慣のあった日本において、考古学は、ふつうの国以上に、かつての日本の状況を明らかにする。ところが出雲において、古い考古学的遺跡は少ないのである。出雲は、考古学的には、因幡や、石見や、但馬などと、何ら変わるところもないという。小林行雄氏は、5世紀以前において、出雲は考古学的にあまり特徴をもっていないとされる。特徴をもっていないというのは、北九州や、大和のように、巨大な文化の痕跡を示す遺跡がないということである」と述べていらっしゃいます。これが古代の出雲を虚構とする代表的な考え方だったと思います。
梅原先生は、出雲は考古学的に見るべきものは何もないという前提で、出雲は神々の流竄の地であったと説いていらっしゃいます。記紀の出雲神話にも迫り、風土記にも触れ、古代の日本、出雲の姿を明らかにしようとしていらっしゃる、論理は明快で、楽しく魅力的な論文ではあります。しかし今となっては、梅原先生が置かれていた前提が違ってきています。新しい考え方が必要となってきているといわざるを得ません。
今なら、梅原先生はこの出雲をどのようにお書きになるのか伺ってみたいような気がします。

4 358本の銅剣
前提が違ってきたというのは、申し上げるまでもないかもしれませんが、それは昭和59年に斐川町荒神谷から出土した358本の銅剣に始まります。
荒神谷遺跡は、その前年の昭和58年、広域農道整備事業に伴う遺跡分布調査で、調査員が一片の須恵器を拾ったのが発端となって発見されました。当時、全国の銅剣出土総数は300本ほどでしたから、それよりも多い。当たり前ですが、1か所からの出土数としては日本一です。世紀の大発見でした。
その後、近くになにかもっとないかと調査が行われましたが、ありました。翌60年には銅剣発掘現場からわずか7メートルほど離れた場所から銅鐸6個と16本の銅鉾が発見されました。ちなみに銅鉾16本というのも、1か所から出土した数としては日本一です。
すごいことでした。
この発見が全国にニュースとて発信されたとき、日頃かまびすしい考古学者の皆さんも、なんとコメントしていいか分からず、寂として声もなかったと、当時の記録に残っています。それほど、その世界の常識を覆す大発見だったのです。
あれは社高時代か、中学生のころであったか、40年以上も経って定かでありませんが、歴史の教科書に青銅器の文化圏を表す図がありました。そこには近畿を中心とする銅鐸文化圏と、北九州を中心とする銅鉾・銅剣(銅戈?記憶があいまいですが)文化圏というのがそれぞれ楕円で示されていました。そして、この出雲地方というのはちょうど楕円の接するあたりになっていて、どちらの文化圏にも属さない地方、いうところの青銅器文化の周辺地帯、むしろ空白地帯とされていたのです。それが今や、全国的に認知されているかどうか分かりませんが、青銅器王国というまでになったのです。
さらに、平成8年、荒神谷からわずか3.4キロしか離れていない加茂町、現在の雲南市ですが、そこから39個の銅鐸が発見されました。これも農道工事に伴ってのものですが、全く偶然に発見されました。工事用のショベルカーに引っかかってぼろぼろと出てきて、工事をしていた人たちはポリバケツが埋まっていたと思ったとか聞いています。今、荒神谷の青銅器は国宝に、加茂岩倉の銅鐸は国指定重要文化財となっていますが、銅鐸の方は当初そんな大切なものとは思わず、そのまま家に持って帰った方もいらっしゃったそうです。
これも大騒ぎでした。一挙に39個、これも1か所からの出土数としては日本一です。それまでは滋賀県の野洲町、現在は野洲市ですが、ここの大岩山から24個の銅鐸が出土し、これが日本一でした。野洲町の方では、日本一の銅鐸出土数を誇るということから、銅鐸の町として全国的に有名になり、駅前には日本一の銅鐸の町、とネオンサインが輝いていたが、加茂岩倉の銅鐸の発見でネオンは消されたと聞きましたが、嘘かまことか・・
かつて銅剣・銅鉾文化圏、銅鐸文化圏というように、銅剣と銅鐸は異なる文化圏を持つとされ、共存はしないものと考えられてきました。特に、銅鐸と銅鉾の共存はありえないとされてきたものです。
先ほどの青銅器文化圏ですが、元々言い出したのは和辻哲郎という哲学者です。古代出雲歴史博物館の名誉館長は上田正昭先生という、日本を代表する歴史学者ですが、上田先生は、歴史学者でもなんでもない哲学者のいうことを唯々諾々と受け入れている歴史、考古学者は何をしているんだと、いつもおっしゃいますが、それはともかく、現在の高校の歴史の資料を見ますと、私らが習ったものとは違います。銅剣、銅鐸文化圏がともに広がり、出雲地方は両方の文化圏に入っています。私としては、出雲地方は、単なる広がりの中に包含されるのではなく、独自の文化圏を形成していたと考えたいのですが、ともあれ、荒神谷遺跡の発見等によって、歴史の教科書は変わりました。荒神谷、加茂岩倉の青銅器の発見は、まさに歴史の教科書を書き換える大発見だったわけです。

5 出雲大社の巨大柱
さらに、平成12年、出雲大社境内から巨大な3本束ねの柱が発見されました。1本の直径が大きなもので1メートル35センチ、束ねて直径3メートルを超える巨大な柱です。
最初に発見されたのは宇豆柱、大社造りは9本の柱で社殿を支えるのが特徴ですが、手前正面の真ん中、棟持柱です。この発見の後4月、10月にはさらに2か所から同じ構造の巨大柱が発見されました。一つは心御柱、もう1か所は南東側柱です。
出雲国造千家家には、金輪御造営指図という図面が伝わっています。この図面には、3本束ねの柱が9本、囲碁の井目状に描かれ、柱口1丈、引き橋長さ1町などと書き込みがしてあります。引き橋というのは本殿に上がるための階段を表しているものと考えられますが、長さ1町というのは、約110メートルです。柱口1丈というのは、柱の直径が約3メートルということを表します。
本居宣長という人がいます。江戸時代の国学者で、古事記の研究などで極めて大きな業績を残している人ですが、宣長は「玉勝間(たまかつま)」という随筆集で、金輪御造営指図に触れ、その図を紹介しています。その巨大さは、さしもの宣長の想像力を超えていたとみえ、「心得ぬことのみ多けれども」というような言い方を添えての紹介でした。確かに、こんな大きな柱、見るまではとても信じられません。
出土したときは、これも全国的な大きな話題になりました。出土したばかりの巨大柱を、出雲大社の境内でごらんになった方も多いと思います。
冒頭ちょっと触れましたが、「口遊」に「雲太、和二、京三」という言葉があります。これは平安時代中頃(970年)に、源為憲が書いた貴族の子弟のための教科書ともいうべきもので、今も使っている九九などもこの本に収録されているのですが、「雲太、和二、京三」もこの中に出てきます。これは、ご承知の方も多いと思いますが、日本で1番大きな建物は大きな建物の1番は出雲大社で、2番目は大和の大仏殿、3番目は京都の大極殿という意味です。
「口遊」には「今案うに雲太は杵築の大明神神殿、和二は大和の国東大寺大仏殿、京三は第極殿八省・・・」という具合に書いてあります。ちなみに、大きな橋では「山太、近二、宇三」とか、大仏さんの大きなもの「和太、河二、近三」、などもありますが、橋のことなど、延喜式(927年)から検証して決してでたらめなものなどではないことを証明した方もいらっしゃいます。このようなことから考えて、当時の貴族の間では、日本一大きな建物は出雲大社という、はっきりした認識があり、またそれは根拠のないものではないということも分かります。したがって、当時の大仏殿は15丈、45メートルと記録されていますから、それより大きかった。出雲大社は、伝承では16丈あったとされていますが、この伝承は、すくなくとも私は間違いないものと思っています。
しかし、本居宣長も信じ切れなかった、また学会でも、そんな巨大な建物が、技術的にも財力的にも出雲という僻遠の地にできるはずがないと否定的でした。
古来、「天下無雙の大廈」と言われ、寂蓮法師という人が平安時代末期のころ出雲大社に詣でて、
「出雲の大社に詣でて見侍りければ、あまくもたなびく山のなかばまで、かたそぎの みえるなん、此世の事ともおぼえざりける
やわらぐる 光や空に 満ちぬらん 雲に分け入る ちぎの方そぎ 」
という歌を残しており、背後の山、八雲山ですが、そのなかばまでの高さがあったと書かれていても信じられませんでした。
金輪御造営指図などをもとにした福山敏男先生(工学博士)の設計により、大林組さんが16丈の出雲大社の復元図を作りました。これは、全国に大きな衝撃を与えましたが、それでも一般には半信半疑というところではなかったでしょうか。なお、この図を元に描かれたイラスト、ご記憶の方も多いと思いますが、巨大神殿が水辺のすぐ近くにあり、神官が拝礼している図です。確かに古代、神門の水海、今は神西湖という小さな湖になっていますが、大きな入り海が杵築に広がっていたと考えられていますが、あの図ほど出雲大社に近かったことはないと、調査の結果わかっています。ちなみに、出雲大社は、古代から、おおむね現在と同じ場所にあったと考えられています。
出雲大社の境内から発見された巨大柱は、世間の常識を根底から揺り動かしました。この柱は炭素年代測定法、年輪年代測定法によって、1240年代のものと判定され、出雲大社の御造営記録と照らし合わせ、1248年、鎌倉時代のものと分かっています。また、この発掘で、その当時のご本殿の平面的な規模、向きは分かりました。ですが、残念ながら高さは分かりません。さっき言いましたように、私は16丈あったと信じているのですが、立証するものはありません。
金輪御造営指図の、引き橋1町の橋脚のあとでも発見できれば、強い傍証になるわけですけれども、それは発見できないままになっています。ただ、現在の大社のご本殿の宇豆柱の直径が87センチメートルだそうですから、発見された鎌倉時代のそれはその3倍以上の太さです。いかに大きいものか分かります。すばらしく大きなものだったということは間違いなく言えると思います。
発掘された大きな柱の周辺からは、大きな釘、帯状の鉄片、須恵器、器の削りかす手斧(チョウナなどが同時に出土しており、また1か所には20トン以上の人頭大の石がびっしりとつき固められていました。出雲大社のある地域は大社町杵築といいますが、杵築というのは、『出雲国風土記』によれば、「八束水臣津野命の国引き給ひし後、所造天下大神の宮奉へまつらむとして、諸の皇神等宮處に参り集ひて杵築きたまひき。故、寸付と云ふ」と、その由来を説いています。確かに、あのたくさんの石を見ていますと、築き固めたのだなあということを実感します。
なお、発掘された柱にはベンガラが付着していました。ですから、1248年御造営の大神殿は、赤く塗られていたと考えられます。杵築の枕詞に、「八百丹」というのがありますが、なるほどと思わせます。ついでにもう一つ、同じ杵築の枕詞に八百シネというのもあります。シネは稲、昔から田の稲の実り多いところだったのでしょう。

6 古代出雲歴史博物館の建設
いろいろ申し述べてきましたが、以上は、実は古代出雲歴博物館の建設の伏線であります。
冒頭申しましたように、古代出雲歴史博物館は今年の3月10日にオープンしました。ですから、今日で5か月ほどしか経っていない、まだできたての博物館です。澄田信義前知事の最後の箱物と言われるものでもあります。しかし、この建設に至る動きは20年以上前にさかのぼります。もちろん契機となったのは神庭荒神谷の銅剣の発見です。
島根県には、県庁隣に昭和34年に開館した島根県立博物館がありました。また、昭和47年には松江市大庭町に「八雲立つ風土記の丘資料館」がオープンしました。博物館などは、今から思えば貧弱なものでしたが、考えてみれば当時はそんなもので十分だったのかもしれません。何しろ、梅原先生がご指摘されているように、島根県には「古い考古学的遺跡は少ない」、いや少なかった、のですから。
それが、古代の歴史認識を改めざるを得ない358本の銅剣です。銅剣の発見が昭和59年、これを受けるかたちで、島根県では平成元年に「島根古代文化活用委員会」を設置しました。この委員会は翌平成2年に「島根の古代文化活用への提言」を行っています。委員会はこの提言の最後に、「島根の古代文化の活用施策」を並べています。
そこでは、まず「古代文化研究センター」の設置が必要であるとしており、またその後の方に「歴史的遺産の保存と施設の整備」という項目で、「島根の歴史、文化が通史的に概観できる常設展示や、特徴的な歴史、文化を企画展示できる特別展示、あるいは研修や情報の提供ができる空間を備えるなどした施設が必要である」と、博物館の充実について提言しています。
博物館設置に向けての動きはこの辺から具体化してまいります。途中は省略いたしますが、平成6年には県の長期計画に、加茂岩倉の銅鐸が発見された平成8年には中期計画にも明記されるようになりました。ただこの頃は設置場所として、「八雲立つ風土記の丘周辺に」とされていて、風土記の丘資料館の老朽化対策とあわせて考えられていたように記憶しています。
平成10年には、「島根県立歴史民俗博物館・古代文化研究センター基本構想検討委員会(仮称)」が設けられ、この委員会では翌平成11年に基本構想をまとめられました。委員会の名前は、今申し上げましたように非常に長いのですが、基本構想の中では、仮称ではありますが「歴史博物館」1本となり、調査・研究、保管、展示等々を一体的に行う施設となってきました。場所については、用地の広さが確保できる、歴史環境や自然環境に恵まれている、周辺に文化施設・観光施設などがあり相乗効果が図れる、などを条件としています。ここらあたりでは、現在の博物館のある場所が大いに意識されてきたと思っています。
この基本構想を受け、平成13年、島根県は歴史民俗博物館・古代文化研究センター整備基本計画を策定しました。もちろん基本構想を受けて、その具体化を図るものだったのですが、基本構想では博物館、古代文化研究センターが一体のものとされていたのですが、基本計画ではそれが分けられ、博物館は名称を「歴史民俗博物館」として大社町出雲大社東隣に、古代文化研究センターは八雲立つ風土記の丘に設置をするということに変わったのです。松江と出雲の綱引きの結果ということですけれども、非常に大きな変更でした。
とにかくこれで大筋は一応決まりました。次の年には建築設計者なども決まり、順調に動き出したやに見えたのですが、そのとき島根県、というか全国の自治体をおそったのが、いわゆる地財ショックという大激震でした。国の地方財政計画が発表されたのですが、島根県など財政基盤の弱い自治体が頼りにしている地方交付税などの配分が大幅に削減されてしまったのです。島根県は、本当に深刻な財政危機に見舞われました。
結局、博物館は事業規模を縮小し建設する、古代文化センターは当分の間施設整備等は行わず、ソフト面で対応する、ということで決着がつきました。
平成16年には、正式名称が「島根県立古代出雲歴史博物館」と決定され、建設工事にも着工し、今年3月のオープンということになったのです。
なお、この古代出雲歴史博物館という名称ですが、古代については先ほどお話ししたとおりの広がりを持っていますが、出雲についても、律令制の下、国郡制の中での出雲、ということではなく、古代の出雲はもっと大きな広がりを持っていて島根県全体、いやもっと大きな地域をカバーする広い概念のものである、という考えのもとにこの名前が決まりました。
この名称については、いろいろ考えました。島根県が作る、たぶん唯一の歴史系博物館が、「出雲」という、島根県の一部の地域のみを指す名称でいいのかどうか、他の地域の皆さま方の理解を得られるかどうか。しかし、島根県立歴史民俗博物館、歴史博物館などではあまりに没個性的です。古代出雲歴史博物館ではなくって出雲古代歴史博物館はどうか、という案も考えました。出雲にある古代を中心とする博物館、という意味です。なにせ、古代の出雲というのはロマンがあります。それを全国に売り出したい、そんな気持ちが当時のスタッフには強くありましたから、この名称にはいささかこだわったのです。
しかし、知事とも協議して、「古代出雲歴史博物館」、この名前で行こうということになり、石見や隠岐の皆さまにご理解をいただくために何人かの方に説明して回りましたが、みなさんは「やっぱり島根を売り出すなら古代出雲だなあ」と、極めて好意的な反応をお示しいただき、現在の名前が決まったわけです。

7 古代出雲歴史博物館の外観
こうしてできあがった島根県立古代出雲歴史博物館ですが、最初に申し上げましたように、県内外から多くのみなさまにおいでいただきました。評判は、私が言ってはなんですけれども、上上だと思います。来館者の皆さまに対するアンケートの様子を見ましても、観覧後のご感想は、大変よかった、よかったが8割から9割、もう一度来たいと思われますかという設問に対しては7割くらいの人がそう思うと答えていらっしゃいます。
その理由としてあげられているのは、「展示の充実度」というのが一番高く、だいたい3割くらいの方が、これを理由に挙げていらっしゃいます。ほかの博物館のアンケートと比較したことはありませんから断定などできませんが、たぶん相当高い評価をいただいていると思います。
先ほど申し上げた財政危機で、当初150億円の予定であった事業費は30億円削られ、120億円になりました。面積は10パーセントカットです。トイレや展示室など、いろいろなところが狭い、と言われます。壁とか柱のような構造の所は削れませんから、勢いいわゆる生活空間的なところが10パーセントよりも大きく削られ、狭くなっています。
また、グレードも落ちています。わかりやすいのが、庭園の木です。
外観の写真をご覧ください。奥が北山です。
まずアプローチです。この石畳は、出雲大社の巨大神殿の引き橋1町がイメージされています。皆さんも、どうかあの石畳、石畳と言っていいかどうか、白い石と黒い石が交互に続いていて、階段を連想することもできると思いますけれども、あそこを歩かれますときは、古の出雲大社の引き橋を思い出していただきたいと思います。ずいぶん長いと思われるに違いありません。あんな長さの階段を神官の皆さんが昇っていた時代があったんですね。きっと大変だったと思います。
このアプローチの両側にある、あの木は桂の木です。桂の木は、製鉄の神様金屋子神が白鷺に乗って降り立った木で、古来、鉄-タタラを作る場には必ず植えてあったそうです。その桂の木なのですが、当初設計では10数メートルの高さがありました。今は7~8メートルでしょうか。これも経費削減対策の一つです。
あの博物館を設計したのは槇文彦という方ですが、槇さんは、島根にふさわしい博物館をということを考えて、タタラ製鉄をテーマの一つにして設計をしてくださいました。古代出雲歴史博物館をごらんになったことがある方にはご存知の通り、博物館の外壁に赤い金属が見えます。あれはコルテン鋼という特殊鋼です。鉄を腐食させて、それ以上の腐食を防ぐという鋼材なのですが、時間がたつにつれて趣深い色を出すと聞いています。あれで製鉄のイメージを訴えています。
こんな風に、あれやこれやで倹約してまいりました。さらに、博物館の造りに、特に大社町の皆さんの中には、たぶんもっと重厚な、神殿作りか石造りのようなものを期待されていた方も多かったようで、今のものは倉庫か工場のように見えて仕方がないとおっしゃる方がたくさんおられました。久しぶりにお会いした方の中には、私をつかまえて、工場長、とおっしゃった方もあって、どうお答えしてよいか困ったこともありました。一方、明るくて気持ちが良いという方もいらっしゃいます。
建物の評価はともあれ、国立の大規模なものは別としましても、中身はどこの歴史系博物館にも負けません。かつての教育委員会時代、そして今博物館に勤務するようになってからも、いくつかの博物館を見てきましたが、自信を持ってこう言うことができます。この自負は、私たち博物館関係者はしっかりと持っています。それは博物館設置に長く携わってきた者達の努力はもちろん大きなものがありますが、何よりこの地、出雲のすばらしさの故、かつてこの地に生き、活躍した先人達が私たちに残してくださった宝物の故だと思います。

8 古代出雲歴史博物館の展示
展示室に入ってまいります。 展示室の構成は、ごらんの通りです。
古代出雲歴史博物館は、平成2年の島根古代文化活用委員会の「島根の古代文化活用への提言」にある「島根の歴史、文化が通史的に概観できる常設展示や、特徴的な歴史、文化を企画展示できる特別展示、あるいは研修や情報の提供ができる空間を備え」た、おおむねそのような施設となっています。
常設展示のための場所として、総合展示室、テーマ別展示室、神話回廊があります。このうち、特にテーマ別展示室、神話回廊が、古代出雲歴史博物館の、いわば売りです。
(1)中央ロビー
これらの展示室に入る前のスペースとして、中央ロビーと呼んでいる広い空間がありますが、ここの真ん中には、出雲大社様のご厚意によりお貸しいただいている宇豆柱がまずみなさまをお迎えします。3本束ねの直径3メートルを超えるその巨大さ、年輪や刻み込まれた手斧の跡の鮮やかさ、作り物ではありますが敷き詰められた石の圧倒的な数、それらから古の出雲大社の巨大さを目の当たりに実感できるというものです。太い綱を通して引っ張るために開けられた穴、餌釣穴といいますが、それとか、手斧で削った跡、そんなものが当時そのままに見られます。
これは鎌倉時代のものです。あの柱を年輪年代測定法などで年代測定をすると、1230年プラスマイナス15年に伐採されたものであることがわかっています。一方で出雲大社の御造営記録を見ますと、宝治2年、1248年に御造替されたという記録があり、これらのことからこの宇豆柱はこの1248年のお社のものであると考えています。
宇豆柱は、向きや配置など、発掘されたときと同じ状態で展示していますが、その一番南側の柱、これは底の部分が斜めに削られています。これは柱を立てるときに引っかかったから削られたものと考えています。あんな大きな柱をどういう具合にして立てたのかというご質問をよく受けます。これは展示室内の映像でもご紹介していますが、諏訪大社の御柱(おんばしら)祭に見られるように、柱を立てるところに穴を掘っておいて、そこへ引きずり込んで、引き立てる、そんな方法をとったのだろうと考えられます。すると、後から立てる柱は角が前の柱に引っかかります。ですから引っかかる部分を削ったのだろう、そういう風に考えられるわけです。その削り後もくっきりとわかります。
(2)テーマ別展示室
次にテーマ別展示室にまいります。
テーマ別展示室は、「出雲大社と神々の国のまつり」、「出雲國風土記の世界」、「青銅器と金色の大刀」の3つのコーナーからなっています。
まず、出雲大社と神々の国のまつりのコーナーです。
出雲大社は日本人なら誰でも知っている、それほど有名で、「天下無雙の大廈」と言われてきたように、大きく重厚なまさにオオヤシロです。出雲大社はかつて杵築大社、天の日隅の宮とも呼ばれ、日の神アマテラス大神の伊勢神宮と一対を成す日本を代表する神社です。しかし、いつ、誰が、何の目的で、どのようにして創建したのか、未だに多くの謎に包まれたままです。その謎に皆さんで迫っていただける、そんなコーナーです。
●稲吉角田遺跡の壺
一番最初にあるのが鳥取県稲吉角田遺跡から出土した弥生時代の壺の首の部分の複製品です。古代出雲歴史博物館にいらっしゃったことがある方でもつい見落としてしまいそうな、ちょっと片隅みたいな所にあるんですが、この壺には太陽、鳥装の人-シャーマンといわれています、木や鹿などと、それから長い梯子と高い足を持った建物が描かれています。弥生時代から、この地方にはこんな高い建物があったと考えられ、またシャーマンらしい人たちが目指している様子から、単なる高床の倉庫のようなものではなく、神聖性を持った建物であったと考えることができる、高さに神聖性を見いだしていた古代人の姿が浮かんでくるわけで、いにしえの出雲大社の源流と考えることができると思います。佐賀県の吉野ヶ里遺跡の主祭殿は重層の楼のような建物であったと推定されていますし、大きな建物を建てる技術も蓄積されていたんではないでしょうか。
卑弥呼は高い楼閣に住み、男弟一人を除き人を近づけなかったといわれますが、吉野ヶ里遺跡の主祭殿は卑弥呼の神殿という人もいます。その高さはその神聖性を確保し、神を守る結界を作る意味もあったのだろうと思います。
ともあれ、淀江の弥生の土器は、この地方に弥生の昔から極めて高い建物があり、それは古の出雲大社の源流とも言えようということで、まずこの土器を置いたというわけです。
●命主社の銅戈・勾玉
次は、イノチヌシノヤシロの銅戈と勾玉です。これも出雲大社のご所蔵で、開館後しばらくは本物をお借りして展示していましたが、今はレプリカが展示してあります。
この銅戈、勾玉は、寛文の御造営の際、あのあたりから石を切り出されたらしいんですが、そのときに大石の下から見つかったと記録されています。このほかに3点の「鉾」、「剣」もあわせて発見されたと記録されています。
成分調査等の結果、銅戈は九州産、勾玉は北陸糸魚川産のものと分かりました。出雲大社のご本殿の隣には大国主神利根の国で結ばれたスセリヒメをまつるお社と並んで筑紫の社には九州宗像大社沖の島の御祭神であるタギリヒメがまつられていますし、北陸のヌナカワヒメとの恋の物語も残されていますから、古来この出雲は九州、北陸地方と深いつながりを持っていたことが分かります。
●金輪御造営指図
千家国造家に伝わる、ご本殿造営の平面図とされるもの。
引き橋長さ1町、柱口1丈という文字が読み取れる。
●口遊
先に述べたとおり。
雲太などが読み取れる。
●本殿復元模型
5つの案が示してある。
宇豆柱ほか発掘された柱、出雲大社並神郷図(鎌倉時代)などを参考に、作成されたもの。博物館としては一つにしたかった。
出雲大社並びに神郷図は、かなり正確に描かれている。学芸員が実地に検証して歩いた。
●本殿復元模型(平安)
金輪御造営指図などをもとに福山先生という方の設計をもとに、大林組さんが16丈の出雲大社の復元図を作りました。本の表紙にもなっていましたから、ご記憶の方も多いと思いますが、それをもとに出雲大社でお作りになり、今博物館にお貸しいただいているものです。
太子伝玉林抄(15世紀)という書には、「大社の背口にハカリ山とて36丈の山あり。その丈につくるべし」とあります。また、鰐淵寺文書「杵築大社32丈と申すは仁王12代景行天皇の御時御造立なり、その後16丈になり、次に8丈になり・・・」ともあります。きっとそびえ立っていたことでしょう。
ちなみに、日御碕灯台の高さは43.65mです。あの展望台と48メートルの神殿の床は同じくらいの高さだと思います。あの神殿に昇るのは相当怖いことだったのではないかと思います。
●千木・勝男木
明治14年(1881)の御遷宮から御本殿の屋根を飾り、昭和28年(1953)の御遷宮までそびえていたものです。千木は8.3m、500kgもあります。

時間がなくなってきました。途中は省かせていただきますが、出雲を再発見する端緒となった荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸、これだけはごらんいただきたいと存じます。
●銅剣・銅鐸
荒神谷銅剣358本中344本に印があります。加茂岩倉の銅鐸39個についても14個に同じ印がついています。これは一体何を意味するのか、まだ定説はありません。なぜ埋められたのか、印の意味は何か、これらを考えるだけでひとときロマンに浸れますし、古代出雲に思いをはせていただくことができると思います。

結局まとまりのつかないことを申し上げてしまいましたが、荒神谷の358本の銅剣、16本の銅鉾、6個の銅鐸、そして加茂岩倉の39個の銅鐸の発掘、さらに出雲大社境内からの巨大柱の発見で、虚構とも言われた古代出雲は何らかのかたちで実在し、光を放っていたことが証明されたと私は考えております。
かつては、何もないと言われた出雲、しかし、やはり出雲は古代に燦然と光り輝いていた、出雲はすごいんだぞと、それをみなさんに訴え、主張する、それが古代出雲歴史博物館であると思っています。
島根県はつまらない県だという方もいらっしゃる、しかしそんなことはありません。胸を張って、島根県にはこんなに誇るべきものがあるということを言える、その象徴が古代出雲歴史博物館である、いや、そうなりたいと思っています。
まだ、生まれたての博物館ですが、がんばってまいります。どうかご支援をよろしくお願いいたします。

*この講演にはプロジェクターによる映像を用いられましたので、文面のみではお分かりになりづらい部分もございます。